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2009年10月 4日 (日)

【立ち読み・「高校生活指導」182号③】 ひとりで「溜め」こむのか? 共同の「溜め」をつくるのか?(下)

(今号・第1特集は「「溜め」をつくる」。下記記事のつづきです)

<以下>

ひとりで「溜め」こむのか?共同の「溜め」をつくるのか?
               大阪高生研 井沼淳一郎

「溜め」という言葉をどう理解するか

 編集委員会から示された本特集の趣旨のなかでは、湯浅誠が用いる「溜め」について、つぎのような説明がなされていた。

「湯浅誠氏は『溜め』という言葉を用い、現代の貧困の深刻さを表しています。『溜め』には、金銭的な『溜め』、人間関係の『溜め』、精神的な『溜め』があり、金銭的な『溜め』があれば、解雇されても次の就職先を探す時間を稼げるし、家族や友人のような人間関係の『溜め』があれば、次の職を得るまでそれに依存もでき、精神的な『溜め』があれば、不遇を耐えることができる、というのです。いまの貧困はそれらの「溜め」が総合的に失われ、奪われて、貧困状態に陥っていると。(後略)」

 
 たしかに湯浅は、「溜め」=人ががんばれる条件について、そのように述べている。「溜め」という概念をつくることで、「死ぬ気で努力すれば何とかなるはず」的な自己責任論の無責任さを打ち破り、人々の持つ条件の違いを明らかにしていくことは、実践的に大切である。

 ただし、「溜め」を上記のようにいくつかの要素に還元して理解してしまうとき、「溜め」を<個人的に獲得すべきスキル>に矮小化してしまう危険性も生まれてくる。そのことで「溜め」を奪ってきた社会構造自体が問われなくなってしまうなら、それは新たな自己責任論に繋がれることを意味するだろう。

 湯浅が「溜め」という言葉を用いだした背景には、「貧困を見る、可視化するとは、同時に目に見えないその人の境遇や条件(“溜め”)を見る、見るように努力するということが不可欠」という認識がある。貧困を要素に分けることが重要なのではなくて、貧困を個人と社会のダイナミズムとして可視化することが第一義なのである。「社会構造と、社会構造が本人にもたらす精神状態の両面を理解する必要がある。その両者を括る言葉として、わたしは“溜め”という言葉をつくった」と彼が述べているのはそういうことだろう。

 

自己責任論批判から市民的責任の担い手へ

同時に、私たちは、「溜め」を奪う社会構造(構造的暴力)を明らかにし、「自己責任論」や「はんぶん自己責任論」を指弾するだけで終わることはできないだろう。社会に問題があるならではどう変えていくのかという市民的責任が課題としてせり上がってくる。学校に引き寄せていえば、生徒に共感し同情するだけでは事態は変わらないし、市民的責任を提起しない実践は、いつまでも高校生をしゃんとさせられないのである。

 

(以下略。井沼さんの実践・授業「アルバイトの契約書をもらってみる」を例にあげての論考が続きます。『高校生活指導』182号(秋号)発売中。大阪高生研会員メンバーの原稿を抜粋しながら掲載しています)

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