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2014年12月17日 (水)

生徒の授業評価を先生の評価(賃金リンク)に直結させる

みなさん、こんばんは。長野です。
大阪府教委は、生徒の授業評価を先生の評価(賃金リンク)に直結させる案を提示してきました。

生徒による「授業アンケート」の点数→教員の「授業力」評価→「能力」「業績」評価→総合評価 と事実上直接結び付くことになります。“教育改革”の最前線をいく大阪ですが、、これがどんな影響をもたらすのでしょうか・・・。私自身の受け止めとしては、とうとうここまで来たかという思いです。塾の先生や予備校の先生はこういうことはよくあるようですが・・・。

私学でもそうかもしれません。聞くところによると、大阪の教員は絶対評価(行政職は相対評価)で、BやCランクが少ないのでもっと相対評価に近いものにすべきという府議会の圧力もあるようです。

もとより、より良い授業をつくることは大切な課題です。でも、こんなやりかたはどうなんだろうと思います・・・。みなさんはどのようにお考えになるでしょうか。

2014年11月 3日 (月)

「めだちたいだけ」の人では、ない。

教育委員会議で「パワハラ」発言を暴露する5日前、立川さんは某府立高校の公開授業を見に来ておられた。

「お久しぶりです」

 向こうから声かけてくれたのに一瞬だれだかわからなかったぼくに、

「立川です」

  にこやかな笑み。
 それを見てやっと教育委員の立川さおりさんだと気づいた次第。

 このときにはもうすでに件(くだん)の「文章」をしたため、告発するかしないか落ち着かない日々を送っておられたんだろうな。



 その日の教育長のことばのなかに、

「目立ちたいだけでしょ」

 というものがあったときく。

 教育委員会議のなかで、立川さんがいつもどんな発言をされていたのかは全然知らないが、少なくとも「目立ちたい」で動く人ではない。

 なぜなら、立川さんとはそれこそあちこちの学校や教育イベントでいっぱい会ったから。

 ぼくは、内容がおもしろけりゃ教育委員会や各学校が主催する研修や授業研究会などにも割と行くほうだけど、そこで同席もした。それだけでなく、さまざまな民間主催の教育イベント、そしてぼくら高生研関係で行うイベントにも、勉強になりそうなら主催はどこであれ、気軽に顔出して勉強していかれる方だ。

「子どもをもつ人」枠で教育委員に公募採用された立川さんだからこその職責で、あくまでもその視線を持ちながら、学校にも教師たちの集まりにも積極的に顔を出されていた。

 もちろん、まわりに「偉いサン」を引き連れることもなく常に個人で来られ、職をひけらかすことなく、多くの人たちと気軽に談義しておられた。

 教育長はもとより、そういう場所で他の教育委員の方々と会ったことがない(もしかしたらぼくが顔知らないだけかもしれないけど。)だけに、ぼくにとっての立川さんのイメージは、とにかく、「地道に現場を知ろうとしている人」。


「目立ちたい」とは対極の人なのだ。


 残念ながら最近特に声をあげるとセカンドの圧力が猛烈に降りかかってくるこの国だけど、立川さんに勇気をもらった人、立川さんを応援している人はいっぱいいます。

 これからもがんばって現場を見に来てください。

                           (文責・サトウ)

2014年6月20日 (金)

日本vsギリシャ戦、「勝ってほしい」と一番願っているのは……?(ワールドカップと集団的自衛権)

以前、ジャーナリストの西谷文和さんがこんなこと言ってました。

「国民的議論が必要なときに限って、はかったかのようにワイドショーを席巻する「大事件」が起こる。

・日米ガイドライン―多摩川のたまちゃん
・教育基本法「改正」―白装束の団体・パナホーム
・特定秘密法案―車エビなどの食品偽装

                          などなど」



 そういえばこの前、首相が集団的自衛権の説明をしたとたん、ASKA容疑者が逮捕されたっけ。


 明朝のサッカーワールドカップ日本vsギリシャ戦。
 場合によっては一気に一次リーグ敗退で熱狂が冷めてしまう局面。


 この「法則」でいうと、一番「勝ってほしい」と願っているのは、安倍さん……かも。

2014年1月21日 (火)

成人式に思う

 首藤です。

 休日の月曜日朝。朝食の用意をしながらテレビをみていたら、日曜日の各地の成人式の様子が・・・。

那覇市で荒れ狂う新成人の様子も出ていたけれど、そうした人たちはごく一部とのコメント。奥州市で行われた「日本一泣ける成人式」の様子。父親・家族が舞台で思いを綴った手紙を朗読していて、これはなかなかいいなあと思った次第。

番組によると今年の新成人は「ゆとり世代」で中学生のころに「ケータイ」を持ち始めたことが特徴とのこと。自分たちが「ゆとり世代」であることをどう思うかインタビューを受けていて、「時間に余裕ができて、部活とかがんばった」「本をたくさん読めた」みたいなコメントで肯定的に受け止めていた。そうした新成人のインタビューを聞いていた司会者が首を振っていたことに違和感を持ったけど・・・。

先日の総会での越野さんのお話につながっていて興味深かった。「ゆとり世代」バッシングが、単なるレッテル貼りでそうした何でも一括りにして理解しようとすることは誤りだと先日のお話にからめて改めて思った次第。

越野さんのお話で言えば、「社会主義への憧憬」と「高度経済成長」という大きな物語が失われた後で、みんなが新しい物語を欲してるという認識はなるほどと思った。大きな物語を求める傾向が「右傾化」というのも確かだ。新聞を見ると、一見して新保守派・右派の新刊広告があふれかえっている。そこには、中韓バッシングやらアベノミクス礼賛やら・・・自分が頼れるものを求めようとする心性の表現だろう。保守派の論客中島岳志はそうした新保守派を批判して「リベラル保守」を唱えていたなあ。

さて、新成人もそうだけど、ぼく自身はどんな「物語」を書こうかしらん・・・。

2013年5月 6日 (月)

立憲主義

96条の変更案件がクローズアップされてきました。

○安倍首相が「背番号96」のユニフォームを着て長島・松井両氏の国民栄誉賞セレモニーにのぞむ。
http://www.sanspo.com/geino/news/20130505/pol13050517110002-n1.html

○「『マガジン9条』はあるけれど『マガジン立憲主義』は存在しない。国家=権力と国民の関係をめぐる問題の一つとして9条を位置づけることなどほとんど考えられていない。ここが大問題です。つまり憲法とは何のために存在するのか、という根本的な部分がごそっと抜け落ちているんです」

最近、「96条問題」が、もしかしたら「憲法って?」を問い直す機会に反転できるかも? と思います。

 5年以上前に「憲法とは国家=権力に余計なことをさせないための法律だ」「憲法の条文に従うのは国民ではなく国家=権力だ」としきりに言っておられたのが、憲法学者の田村理さん。
(『国家は僕らをまもらない―愛と自由の憲法論』(朝日新書))

 授業で教えたけど、正直、あんまりピンとこない生徒も多かった。
(「ふーん、そう」といった感じ)

ところが、憲法を変えたい人の、「憲法の役割=立憲主義」をこそ一気に変えてしまおうという策動が、「かえって立憲主義を根づかせる結果になった」となるかもしれない。

→田村さんの4年前のインタビュー(今読み直して、改めて思うこと多いです)
 
http://www.magazine9.jp/interv/tamura/index1.php

○夏の京都大会のプログラム作成が急ピッチで進んでいるようです。
関係グループ員の皆さん、お疲れさま。
1会員としては、やっぱり大会のどこかで「憲法」をしっかり語る場がほしいですね。

                        (サトウ)

2013年3月27日 (水)

激しいデッドヒート?

新聞折り込みには塾や予備校のチラシがテンコ盛り・・・。大阪ではR塾とM教室の熾烈な合格者数競争が展開されている。これまで北摂地盤のRは公立で偏差値トップのK高校にダントツの合格者を誇っていたが、河内筋から進出してきたMが猛烈な攻勢をかけて今年は逆転。何とK高校では定員320名のうち160名がMで150名がR。ということは残るは10名?・・・。それでMのチラシはK高校の合格者が160名というのを前面に打ち出してきた。するとRは、府内進学特色校10校の合格者数898名を打ち出して・・・。まあ、何とも言えぬありさまで・・・。それにしても1つの高校で2つの進学塾の出身者が占めるというのはどんな感じなんだろう・・・。高校受験で塾の役割というか影響力はとても大きい。有名校への合格者数は塾のウリだから、それを前面に出して競うのもわかる。が、ウリはそれしかないの・・・?と思ってしまう。一概に善悪を論じることはできないが、中学校の進路指導と塾の進路指導との関係はどうなのかとかいろいろ考える・・・。競争主義への圧力が強まる中で受験とは何か、今一度考える時期ではないか。(S)

2013年2月11日 (月)

NHK「かんさい熱視線  問われる体罰~高2男子部員 自殺の波紋~」のこと

8日(金)(再放送9日(土))の「かんさい熱視線」は、有名指導者の悔恨を引き出し、良き指導者像を対置するつくりでした。

 先日の大阪高生研事務局会議をカメラ取材されたNHKの方からは、

・今回は主にスポーツの現場における体罰を中心に検証することになった。
・一方で、現役教師の方々の意見交換シーンは大変貴重で、番組のなかで紹介できないかという議論がつくり手内に最後まであったが、誤解をうむ可能性があるので、カットさせていただいた。

との連絡がありました。

私たちは、スポーツ指導と生徒指導、「指導」に境界はないと考えます。

「生徒指導上、許される体罰はある。境界線をしっかり探すべき」ということで、今回の事象を「スポーツにおける体罰」だけに収束させようとする風潮に異を唱えます。

25分の短い時間ではやむを得ないのかもしれませんが、顧問の体罰を告発した某部の部員たちをきちんと評価すべきだし、それをなぜ大人は受け止めきれなかったのか。体罰は絶対認めないとしながら、では、なぜ体罰が繰り返されるのか。学校再生の道筋は?

――このあたり、「部活動」に限定してしまうと切り込めません。

「困難」な子どもたち相手に、「暴力」なしにどうやったらやっていけるのか?
日々現場で苦闘している私たちであるだけに、今後も真摯に考え、訴えていきたいと思います。

2013年1月22日 (火)

「体罰・暴力」② 「厳格に暴力は排除しなければいけない」の「暴力」とは何か。

当ブログ管理人・サトウです。

1月18日 (金)の記事で、

「「厳格に暴力は排除しなければいけない」と言いきった橋下さんの今回の姿勢を大いに評価します」
「大阪市民であるぼくは、橋下さんもがんばれ、と心からエール送ります」

 と書きました。

 橋下さん、その後も「がんばって」、昨日はとうとう、当校の今年度体育科入試がなくなることが決まりました(「看板をつけかえただけ」という説もありますが)。

 前回記事に対しては、「橋下さん、全然反省してないよ」「人の命を政治利用しているだけじゃないか」という声をいくつもいただきました。

 でもぼくは今でも、「厳格に暴力は排除しなければいけない」発言は評価できると思います。

   ただ、残念ながら、いかんせんこの素晴らしい発言と、市長のやってること(やってきたこと)が合っていない(=認識が改まっていない)。

 ここに大きな違和感を感じてしまいます。

 順不同で列挙。

①こういう「とにかく「上」の言うことは絶対」との思考停止状況のはびこりこそが、今回の悲劇の根本原因じゃないか。

②市長が「体罰は不要」と言うときに、「スポーツにおいて」「クラブ指導において」などの枕詞がひっついてくる。「学校生活のすべてにおいて暴力を廃す」とは言っていないじゃないか。

③権限のある人、「立場」の強い人が、「入試中止」「教職員全員入れ替え」などを有無を言わさず一方的に押しつけてくるその姿勢こそが、おもいっきり「暴力」じゃないか。

 この件は、「学校に憲法をどう活かすのか」(もしくは「今の学校や社会にどんな憲法が必要なのか」)の問題だと思います。

 在校している高校生や受験予定の中学生たちが、頼もしく発言し出しました。

 提言です。

 これから、「教育条例」でつくられた同校の学校協議会で、これからの学校づくりを検討する。
 その際、もちろん、主役である生徒たちも協議会の「正式メンバー」として参加する。
 彼らの力なくして「再生」はありえないのだから。
(生徒たちも参加要求をしてくると思う)
 

 体罰はなぜくりかえされるのか、体罰と暴力の関係は何か、そもそも体罰とは何か、など、今、私たち教師は、あらためて“体罰・暴力に頼らない指導を学校に”という問いをたてる必要があるのではないでしょうか――このテーマで大阪高生研事務局も、「緊急学習会」を開催すべく手配中です。

2013年1月18日 (金)

「体罰・暴力」①

この間の「バスケ部員自殺」に端を発した「体罰・暴力」の問題に際して、大阪高生研内でもさまざまな議論が行われています。

「緊急学習会」を行おうという話も出ています。

以下、大阪市長が遺族に謝罪した時点での、管理人・サトウ個人文責の意見です。
「大阪高生研内でも評価分かれたところ」と承知のうえ、お読みください。

<以下>

大阪市長の「きっちりした謝罪」

ぼくは、この間の大阪の「教育改革」は、ぼくたちが今まで大切にしてきた大阪の教育の「いいところ」をどんどん失わせているんじゃないかと不安に思う立場です。

 また、前から橋下市長が「口で言ってきかなければ手を出さなきゃしょうがない」(https://www.youtube.com/watch?v=xSeMDxxaIcw)とか言ってたことは絶対おかしいし、そのうえで、今回の「バスケ部員自殺」に際し、

「クラブ活動の中でビンタをすることは、ありうると思っている」
「教育委員会が体罰禁止とか、手をあげることは絶対にありえないという、うわべっ面のスローガンで事にあたっていたことが最大の原因」
                  
 などと、その後も暴力容認発言をしたり教委攻撃に使っているのは絶対おかしいと思っていました。

 しかし、12日、遺族宅を訪れた橋下さんは、「スポーツの指導で頭をたたかれたり、尻を蹴られることは普通にあると思っていた」が,「自分の認識は甘すぎた」ときっちり謝罪をされました。

 このことについては、「また発言がブレた」と批判的な向きは多々ある。
「どうせ、世論の風向きを読んだだけの謝罪だ。「教育は20000%強制」の思想は何ら変わっていない」との冷めた見方もある。

 けど、ぼくは耳の痛い批判にもしっかりと向き合い「厳格に暴力は排除しなければいけない」と言いきった橋下さんの今回の姿勢を大いに評価しますし、「懸命な指導だから」「「正義」があるから」と「暴力は絶対ダメ」の立場になかなか立ちきれない土壌がぼくらの現場にあるのなら、それはしっかり反省せねばならないと思います。

 教育現場だけでなく、社会全般が「暴力的」になっている昨今。幅をきかしている「言うてわからんヤツは殴らにゃわからん」という考え方を否定する。「暴力は排除しなければいけない」との前提をしっかり取り戻す。「暴力に頼らなきゃ指導できない」のなら教師失格だ――と。

 これが「学校」での常識となり、やがては「社会」、そして「国家」間のレベルでも、「暴力に頼らなきゃ交渉できないのなら外交担当失格だ」が常識となることこそ、貴重な「命」の重さに報いることだと思います。

 大阪市民であるぼくは、橋下さんもがんばれ、と心からエール送ります。
 もちろん、大阪が取り組もうとしている「教育改革」が、「殴らなければ暴力的でもいい」んじゃないことは言うまでもないです。
(だから、「学校現場は言うてもわからんから、強制的に校長を全員民間人にする」は暴論だと思います)
 
 
                                              (文責・佐藤功)